月給2万円のインド生活からミクシィの執行役員に。社長との出会いからこれまで 執行役員 石井 公二〈前編〉

月給2万円のインド生活からミクシィの執行役員に。社長との出会いからこれまで 執行役員 石井 公二〈前編〉

2021年現在、ミクシィグループには6名の社内取締役、5名の執行役員がいます。取締役や執行役員のキャリア、仕事観、事業ビジョン、組織体制など赤裸々に語るコンテンツとしてシリーズでお伝えしていきます。

今回は、ミクシィ執行役員の石井公二。ミクシィ入社後は、現・代表取締役社長の木村と共に『mixiパーク』のリリースと事業撤退を経験。「色々な経験の末、僕は最高の戦略家を目指した。でもなれなかった。悔しいけど」と語る石井。前編では、石井のキャリア半生、木村との関係性を赤裸々に語ってもらいました。

※後編はこちら

目の前の仕事から逃げず、やり切る

「大学院で人工知能を学び、さて就職どうする?」となったときに、私が最初に選んだ会社は大手エレクトロニクスメーカーでした。当時はあまり明確な目的はなく、就職氷河期と言われていた時代にその企業の倍率が80倍だったので、そこだけ切り取って価値が高いと判断して入社したわけです。

でも入社してみたら、彼女が東京にいるのに大阪配属になりました(笑)。単純な僕は「これは近々東京に戻らないといけないだろうから、数年で転職できるだけの力をつけないといけない」と考え、めちゃくちゃ働きました。どうやったら戻れるのか分からないけど、とにかくまずは前へ前へ行くしかないと、前のめりで働きました。

広島の実家から顧客先へ通ってた期間もあったんですが、深夜12時に帰ってきて翌日のミーティング用の資料を読んでいた時、父親に「お前、この働き方だと一生もたないぞ」と言われたこともありました(笑)。

メーカーでは、食品やお菓子のメーカーなどに対して物流システムを提案・導入するような仕事をしていました。当時の物流は、生産管理システムに「ジャストインタイム」が取り入れられるなど、大きな変化を迎えている時で、大雑把にいうと、物流システムのリプレースを通して、ハードもソフトも丸ごと入れ替えていくような部署です。当時、現場に自社企業の社員はあまりおらず、新入社員ながら一生懸命お客さんと話をするんだけど、「なんも分かってない」「お前に何ができるんだよ」と責められたり、怒られたりの毎日という日々だけど、「責任企業の社員として絶対に逃げられない」という気持ちだけで戦っていたように思います。

でもこうやって振り返ってみると、最初の企業でがむしゃらに働いたことは自分の“仕事の原点”のようになっていて、「三つ子の魂百まで」ではないですが、最初の「仕事と向かい合うスタンス」はその後の社会人経験にずっと影響するし、ある程度の経験や知識を早く得て、早い段階で「自分が何者なのかを知ること」は、長いキャリアを夢中になって楽しく働く上で重要なことなんだと思っています。もう一つは、「目の前の仕事から絶対に逃げない」ってこと。どれだけ炎上してたり、やばい状態だったりしても、日和らない。常にどうしたら上手くいくのかを考えてやりきる。これらは今もずっと持ち続けている価値観ですね。

 

インドで気づいた、無価値な自分

大手メーカーで働いた後、実はインドに行きました。周りにも全然理解されなかったんですが、簡単にいうと、インドで製造業を学ぼうって思ったから。ビジネス相手として難易度が高いといわれるインドで製造業を経験したら、世界で通用する自分が作れるんじゃないかと思ったんですよ(笑)。

説明が難しいんだけど、システム導入をしているなかで、最初はメーカー独自のホストコンピューターで自社のOSに自社のソフトを動かしていた、でも段々とSolarisという海外のOSに変わりその上でソフトを創るようになり、次に徐々にWindowsに切り替わっていった、ソフトウェア産業の土台自体が海外のOSに切り替えられてきて、どんどん作られた土台の上で一生懸命ソフト作る、またOSが切り替わったらその上で競合と競争しながら同じようなソフトを作る。OSがユーザーフレンドリーになる毎にだんだんと差別化が図れなくなってきて…それが人間による薄利多売に思えてきた。他人より早く走らないと死ぬから走る、という感じ。

その頃、一部屋3人の寮で暮らしていて、「大手企業は若い頃に苦労して歳とってからがお得」と聞いていたが、これは未来も本当に続くのだろうかと20代後半で思いだしました。

日本人は、土台をゲームチェンジされちゃうソフトウェアより、普遍の物理の法則の上に技術を積み上げる製造業の方が良いのではないかと考えるように。しかし既に20代後半で製造業にジョブチェンジするには遅すぎる。だからこそインドのようなハードな場所や環境でモノにすることができたなら、第一線の人材になれるのでは、と。今考えても、あの時の自分を戒めたいほど甘い見込みで飛び出しました(笑)。

あとは、父親の影響も大きいと思います。戦後のまだ1ドル360円時代に「西部劇が好きだ」とアメリカに渡り「戦後なんで卵投げられて結構テンション下がった」と言っちゃうような父親で。かなり尖ってますよね(笑)。実家から顧客に通っている時がちょうどITバブル崩壊後だったのもあるのですが、「お前は発展途上国の人たちの物事を成し遂げようとする熱量を知らない、自分の人生にとって誰も行かない時代にアメリカで学んだことがすごく生きている、一度誰も行きたがらない所に行ってみた方がいい」と言われました。僕自身もこのまま日本にいていいのかという思いだったり、なんだかんだメーカーの人間よりも親父の方がアイデア商品を作ったりして楽しそうにしている姿を見たりして、いろいろな疑問が積み重なり、インドで製造業を学ぶためにに行くことにしたんです。

父親の知り合いを紹介してもらってインドの工場で働くことにしたんですけど、インドで一番強く感じたのは、“自分自身が無価値である”ってことですね。最初のうちはスタッフが自宅まで迎えに来てくれたり色々やってくれましたけど、そのうちに誰も迎えにもきてくれないし、何も教えてくれない。工場へのお迎えも、3~4日放置なんてこともありました。職場に電話すると「5分後に行く」と言われてホームステイ先のインドファミリーの家のリビングでスーツ着て夕方まで待って、来なくて、暗くなって部屋に戻り…翌朝同じ事をして、家族に気持ち悪がられる日々(笑)。ある時、気づくわけです。仕事のポジションより人口が多いインドにおいては、“人が知らないことを持っている事”で仕事が担保されてる。つまり、相手に教えるっていうのは価値の流出なんだと。競争社会において、誰一人として僕に時間を使いたくないと思っていたわけです。なんというか、日本とは仕事をする上での考え方が根本から違う。日本は価値がなくても、ポテンシャルで採用してくれるし、教育もしてくれる。でもインドは全然違う。大学院でてとか、大手メーカーで働いていた…とか、誰も知らない、これまでの人生が何も通用しない世界でした。

どうにかしようと思って取った策が、“ハッタリ”です。「これまで言わないでいたけど、僕は日本で物流コンサルタントしてたから、トヨタカンバン方式で新しい機械買わなくても君たちの生産性を3倍にできるよ。だってやってたからね!」と。そしたら、車がもらえました(笑)。迎えに行くには難しいから自分で来てくれ、と言われたんです。

結局価値がないとチャンスがないので、ITを武器として会話し、結果一緒にIT企業をやろうと言われて起業し、騙されて潰れて、紆余曲折ありまくって最終的には「インド人」としてインド企業で働いてました。給料も1万5000ルピー、日本でいうと2万円ぐらいかな。日本からの注文が多い会社で、石井さんは何もできないけど通訳ならできるでしょって、雇われたんです。定時後にプログラミングを学び、過去のPM経験を活かして徐々に仕事を増やしてプロジェクトマネジメントシステムを作ったりしてましたが、最後は「日本の炎上プロジェクトに逆輸出」されて日本に帰国しました。この頃のことを思い出すと浮かんでくるのは、「川底」のイメージ。
苦しいけど、周りの人に止められていたのに、自ら入った訳なので、同情する人なんていない、息を止めてとにかく前に進む以外の選択肢はない。このまま日本には帰れない…そんな苦しい気持ちで日々を過ごしていましたね。

 

「こんな神経強い人いるの…?」木村との出会い

日本に帰国した後、外資系企業に転職して働く中で、ミクシィに出会いました。当時のミクシィのCTOが、中国拠点の立ち上げ担当を探しているということで、話を聞くことになって。正直いうとオフショアにはあまり興味がなかったんですが、CTOから“中国で作りたい組織”に対する考え方を聞いて「ぜひ入れてください」となりました。どういう話だったかというと、インドや中国で拠点を作る場合の多くは、人件費などのコストの話が大きいんですよね。でも、ミクシィの話は全然違っていて。「日本の1/10で採用ができるのなら、日本人と同じ給料にすれば、日本人より優秀な人に出会えるはずだ」「そういう世界最高の拠点を作りたい」と聞いて、ものすごく共感しました。

ミクシィで働き始めて少しした頃、『mixiパーク』というプロジェクトが大変そうだから、手伝ってくれないか?」という話をもらいました。『mixiパーク』は、2012年にパートナー企業と共に立ち上げたサービスで、自分の立体的な似顔絵キャラを作成し、ネット上でリアルな友人同士が交流を楽しむというもの。そのプロデューサーを務めていたのが、現・代表取締役社長の木村でした。大変なことになってる、炎上してる…と聞いていただけど、現場をのぞいてみたら結構な盛り上がりで…(笑)。私はインドを経験しているので、インド人に比べたら日本人が言うやばさなんてたかが知れてるよ、と斜に構えてたりしたんですが、状況にほんと驚いて…。でも、当の木村はあんまり気にしてないんですよ。あまり気にせず1年以上淡々と会議してきてるって、こんなに神経が太い人間いるの?…って感じ(笑)。呆れながらも、僕も参加することになり。そこからは、何が足りないのか全部書き出して、やれることやって、行き詰って、また書き出して。そんなことの繰り返し。周りは「これやれると思ってるの?」と冷ややかな目で見てましたけど、僕と木村もエンジンかかって意地になってたらから「やれなくないとは思いますけどね!」なんて返してた(笑)。

プロデューサーとPMという役割でリリースまで持って行って、同じ困難を乗り越えたという意味では、強い信頼関係が生まれました。本当に少人数しかいなかったから、ほぼ友達みたいな感じで。毎日めちゃくちゃ一生懸命でしたが、最終的にはクローズになってしまいました。『mixiパーク』撤退の後、その反省を活かして、木村は「自分で作る」といってモンストの開発を始めました。僕はアイデア出しのところまで一緒にいたんですけど、そもそものところでゲームが好きじゃないから力になれることはないなと思い、助けてほしいと声がけしてもらったミクシィ本体に行くことにしたんです。本音をいうと、僕はプロジェクトマネジメントとストレス耐性が売りで、誰にもできないような難しい物、言葉を選ばずにいうなら“炎上案件”を解決することでしか会社に貢献できないと思い込んでいたので、そこで木村と別れて別プロジェクトにそれぞれ移りました。

 

戦略とは、戦いをどれだけ楽にするか

そこからは、M&AやPMIに関する業務を担当していました。何か問題があると担当になって解決する…っていうのをやってましたね。その流れで、「街コン」イベントを運営する会社の取締役をやったり、結婚支援事業を展開する会社の支援を手がけたりしていました。これまでいろいろやってきましたけど、自分の中で“経営”というワードをキャリアの軸に考えてきたところでした。

ですがその辺りからですかね、また木村が現れだすんです(笑)。デスクに来ては「モンストは絶対くる!今月1000万売る」とか叫んでて。僕としては、「それ、前も聞いたわ。こっち来ないで、シッシッ!」と適当にあしらって。それでも、また来るんです。「1000万売れた、来月は1億円が見えた!」とか言ってくる。「え!?1000万売れたの?」っとちょっと驚きつつ「1億は無理よ、もういいから来ないで」と言うと、僕のFacebook投稿に絡みだして、「こっちの水は甘いぞ!」とかコメントしてくる(笑)。

「もうなんなの!」と思い、これはもう一度話をしようと言う事で、休日になぜか代官山の女の子ばかりいるチョコレートドリンクのお店に入っちゃって、女の子に挟まれておじさん二人で「木村さんは僕の上長じゃないし。俺はゲームじゃなくて、今は経営をやりたい」とはっきり伝えたんです。「いつかまた一緒にやることはあるかもしれないけど、今は別で行こうじゃないか」と。木村も納得してくれてちょっと感動的に終わったと思ったら、その翌週ぐらいにまた現れて(笑)。「モンスト中国プロジェクトを手伝ってくれないか」って言ってきて。「ええ!?先週話したよね?あの時間なんだったんだよ」…ってなりました。なかなかしつこい人なんです、木村って人は。

そうこうしてるうちに、木村が経営会議で僕を中国プロジェクトに異動させることにしちゃって。今だから笑って話せますけど、当時はかなり頭にきました。「おい、俺の人生なんだと思ってんだ。経営をさぁ、やっていこうという時に!」って。そして、半年はほとんど帰国出来ないようなモンスト中国プロジェクトに従事しました。中国の大手企業との協業だったこのプロジェクトは石井史上最高レベルにハードでした。何がハードだったかというと進める中で分かったのですが「ユーザーテストで一定以上の結果が出ないとリリース出来ない」という条件があった事で…。預かった物をやりとげる事をアイデンティティとして生きてきたのですが、その道筋に「中国の人にとっても、もっと面白くする」の要素が入ってきて…「面白くしろだとぅ〜!?」という事で面食らいました(笑)。

社内の経験と実績のある企画や開発の方々と毎日「石井さんのそのアイデアで本当に数字がよくなるのか、決定的に面白くなるのか」と侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論をしてました。そうこうしているうちに、プロジェクトが予定通り進まず帰国出来なくなり、奥さんから会社に薬を送ってもらい、中国まで出張してくるメンバーに持ってきてもらったり、週末に香港にワンタッチしてVISAを更新して再度中国に入国したりして、滞在期間を稼いでなんとかリリースまで結びつけました。

本当に自分自身もキツかったし、それ以上にエンタメに未熟だったため、本当に多くの方々に迷惑をかけましたが、私の記憶だと当時では中国企業と協業しゲームをリリースまでこぎつけた初の日本企業だったと思います。
この経験も、ただただプロジェクトを進める事をアイデンティティとしていた私が、ToCのサービスや面白さについて考えるきっかけを与えてくれた重要な転機でした。

ひと段落して帰国したら、当時スタジオ長をしていた木村が「石井さん、次は何する?事業戦略室きてほしい」みたいに言ってきて、また頭にきました(笑)。

最初いろいろ納得してないこともあったけど、でもやってみると事業戦略の仕事は面白くて。ミクシィのエンタメ事業ブランドとして『XFLAG』を考えたり、垂直統合戦略を取ったり…自分で考えて、実際に形にしていくことにめちゃくちゃハマりました。何にそんなにハマったの?と聞かれると…いろいろあるけど、最初は「戦略」という概念を理解して、やっぱり面白いと思いましたね。戦略って、戦いを略すって書くじゃないですか。戦略と聞いて戦う方法ばかりを考えていたけれど、実はそうじゃない。戦いをどれだけ楽にするかっていうのが戦略なんだと分かった。つまり、何が大切で、何が大切じゃないかを見極めて、本当に注力したいところにリソースを投下しましょう、という話なんですよね。

あとは、単純にその難易度の高さが面白かった。戦略を考えるって本当に難しいことで、世の中がこうなっていくから、こういう作戦でいくと考えるのも難しいし。でも、それって、全部空想じゃないですか。そして、その空想に基づいた行動を1日1日愚直にしていくって、かなり難易度が高いことなんですよね。

 

自分の強みは、戦略という概念を組織に浸透させていける力

これまでも“ヤバイことになってる”と言われるような仕事を任されることが多く「なんで僕が?」って思いつつも手をつけはじめる。そうすると、すぐハマってきちゃう。最初の大手メーカーでもインドでも『mixiパーク』でも同じで、触っているうちに夢中になって、一体どうしたら上手く行くのか…という思想でガッと進んでいっちゃう。事業戦略を学ぼう、戦略家になろうと思ってからも同じで、“1万時間勉強すればなれるんじゃないか”と思って、毎日の勉強時間を日々足し続けていましたから。どんなことであれやり始めたらやり切る、というのは僕のアイデンティティのような気がします。

こんな風に“与えられたものをとにかく形にする”みたいな仕事ばかりしていたから、イメージ力は結構あると思っています。どんな価値を世に生み出したいと言っているのか、ぼんやりイメージすることができるんですよ。一方で現実の組織はどんなものなのかも見える。なので、そのギャップが分かっているというのは、実は僕の強みなのかもしれないと思ってます。

なぜイメージ出来る事やギャップが分かっていることが強みになるかというと、実は戦略を組織に浸透させていくことも同じだと思うから。戦略は概念なんで、こういう戦略が必要だってどれだけ言ってもダメで、言ってることとやってることと、そして結果が伴わなければ、その戦略は組織には浸透しないんです。みんなにとって迷いがないところまで分かりやすく言語化されていないと伝わらないし、少しでも成果が出ていなければみんな納得しない…。戦略を決めるのももちろん難しいけれど、その戦略に従って行動することも同じぐらい難しいことだと思うんです。だから、僕の何がゴールで今がどういう状況で、それを誰がやると上手くいくのかというのがイメージできるスキルは、「勝率の高い運命共同体」を作っていく上での強みになると思っているんです。

そして事業戦略室を経験した後は、執行役員として「社長補佐」になりました。言葉通り、ミクシィの社長となった木村を補佐する役割です。

 

木村は“北極星”。ゴール側に立てる凄さ

戦略の勉強を進める中で改めて自分は稀代の戦略家じゃなかったってことに気づくという悲しい事もありましたが…あらためて思うのは、創業者の笠原や社長の木村が常識や事情に縛られず新しいコンセプトを持てるのは凄いなということ。僕は木村のことを“北極星”って表現していたりしますが、北極星は諸事情に影響されず、全く動かない。ゴール側に立てるとも言えるかもしれない。今の世の中の常識とか定説にとらわれず、世の中に存在していない“こういう価値があったら絶対よくない?”と言える人。

船での航海を例に説明すると、木村はゴール側、北極星側から「そっちじゃないこっちだ」「向こうの船のほうが早いぞ何故だ」って言い続けているタイプ。船を運営している人にはいろんな事情がある、機関室で汗かいている人がいるとか、喧嘩している人がいるとか…でもそういった事情とかが、木村には正直あまり影響してないというか(笑)。でも本質的には、そういう人が戦略に向いているのだと思います。世の中を180度変えて見えるから、勝負ができるんだと思います。

一方で僕はリアル。戦略を理解して、現実を見て、頑張って努力して、一歩ずつ未来に歩んでいくスタイル。戦略や経営を学んでイメージ力を働かせながら、どうやったら本当にゴールにたどり着けるのかをやりきる。だから、僕は戦略家ではない…これが今のところの結論ですね。でも戦略には今だにロマンを感じていて、戦略的に働きたいなと常々思っています。

社長補佐という仕事も、木村が世に問いたい“仮説”を形にする事をやろうと決めて預かりました。決めたら、もうそこからはとにかく成功のために尽くすことにした。成功確率を上げるためにできることは何でもやろう、というのが僕のこれまでのやり方だし、これからも変わらない仕事の流儀なんだと思います。

ここまで色々とハードなキャリアについて語ってきましたが、ミクシィで働く社員には私のようなタフさを求めているわけではありません。今は、この苦労した経験を自分の組織で再現しないように、結果の出せる働きやすい職場にしたいと尽力しているところ。この話については、また別の機会にお話できればと思います。

 

※後編では、社長補佐から次世代エンターテインメント事業本部長に就任した石井のビジョンについて紹介していきます。

 

石井公二 執行役員 / 次世代エンターテインメント事業本部長

富士通株式会社、Wipro Technologies Limited(本社:インド バンガロール)等を経て、2010年12月株式会社ミクシィに入社。海外拠点の立ち上げや新規事業のプロジェクトマネージャー、M&AおよびPMIを担当したのち、モンスト海外事業やXFLAGの戦略策定に従事。2018年4月、当社執行役員(社長補佐担当)就任。2020年4月、株式会社ミクシィ執行役員就任 次世代エンターテインメント事業本部長就任。

 

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